この話は「他人の目を気にして人生が不幸・悶絶的に息苦しくになってる人」にむけて、「なぜいつもドキドキ・ソワソワと、他人の目を気にしてしまうのか?」の原因と幸せになれる具体的な対処を書かせて頂きました。
あなたが、ちょっと考え方をかえて行動してみたら、気づけば「あれ、いつのまにか人の評価を気にしていないぞ・・・」という幸せな流れを意識した対処法を紹介させて頂きますね。
どんなに苦しい精神を患っていても、闇の深い悩みをもっていても、心が解放されて快感をえながら「人の目を気にしている状態」を確実に根治させる。
このお話はそんな効果を狙っています。
ちょっと厳しい言い方になりまが、過度に他人を意識して生きている人の【心の牢獄】に自ら入っているような状況なんですね。
もちろん、すべての人に不愉快な思いをさせる人は論外ですが、たった一度の人生を不幸にしてしまうほど他人を意識してしまうのは、正直もったいないな・・・、と僕は思っています。
【人の目が気になる】とは、「人がどんな評価をしているのか?」をすごく気にしている精神状態ですよね。
ただ当然なのですが、他人の客観的な意見や評価は、主観的になりやすい人間にとって貴重な情報源です。
人は、何かしらを売ってお金を頂いて生きている以上、お客様からすればプロなので自分以外の情報を得られなければ、仕事の向上(ブラッシュアップ)は不可能になってしまいますよね。
しかし、【必要以上】に他人からの評価を気にして、【必要以上】に人生を窮屈にしてしまい、たった一度の人生が不幸になっている人の対処法です。
他人からの評価は大切な側面はあるけれど、その評価によって人生を破壊させてはいけません。
自分の精神や身体を健全に守りながら、【良い意味】で他人を気にして人間を深くしていく流れが、バランスの良い生き方だと僕は確信していますし、必ず幸せになれる生き方でもあると判断しております。
もくじ
・なぜ、他人の評価が異常に気になるのか?
必要以上に他人が気になる問題が生じる原因には、さまざまな答えがあると思いますが、僕は【恐れ】が一番の原因だと判断しています。
それは外の世界ではなく、内の世界。
つまり自分自身にたいする【恐れ】ですね。
自分を恐れている人は、自分自身とコミュニケーションがとれていません
そして自己と信頼関係をつくれないと、外の世界のすべてに【恐怖】をもってしまうのは普通の話なんですね。
外の世界から攻撃されたとき、自分を守るほど信頼関係を構築できていないから、他人が気になるわけです。
極端な意見ですが【他人との関係はどうでも良い】と僕は判断しております。
もちろん人にやさしくしない、愛さなくて良いという意味ではなく、しっかりと自分を見つめて自己とコミュニケーションを良好にすれば、他人との人間関係は自然と健全化していくからという意味です。
僕がカウンセラーとしてご相談をうけるときに問題と思うことは、ほとんどの人が「自分が他人」の意識ではなく、「他人が自分を」の意識で問題を認識しているということなんですね。
しかし、対象の相手だけをみているかぎり、どんな問題も解決することはありません。
自分自身が自分の存在を恐れていて、自己信頼を結べず社会で生きれば、他人の考えや行為が脅威に感じているのは当たり前なのですが、ついつい人は自分よりも相手だけを見て悩んでしまうのです。
それほど自分とは見えにくい存在なんですね。
自分と仲良くできない人は、他人とも仲良くできない。
自分を信頼できない人は、他人を信頼できないので、自分よりも外の世界の存在が恐いのです。
愛されることで幸せを体感できる人間が、自分との信頼関係を無視して他人からの愛を求めても成就することはありません。
自分にたいする恐れの意味は「なにも才能がなくても、誰かの役にたつとはかぎらない自分だけれど、そのままで自分は愛されるべき存在なんだ」と信じたくて、でも、信じきれなくて疑っていて、不安で恐れているということです。
誰かに「そのままで十分、愛されるべき存在なんだよ」といわれたいだけなんですが、自分がそう確信していなければ他人も伝えてくれません。もし仮にそのような言葉をいわれても、自分には【本当の意味】では伝わらないんです。
なぜなら、自分自身が愛されるべき存在という自己評価をしていないからです。自分に【無い】から、他人がポジティブなことをいってくれても伝わらないのです。
真の答えは【あるがままで愛されるべき存在】なのですが、人は生まれてからずっと「自分を疑いなさい」という世界で生きてきたため、余計な情報が入っていて、なかなか確信がもてないのです。
他人を異常に気にしてしまう原因を追及していくと、幼いころに「あるがままでは生きてはいけない」という余計な情報をあたえた人がやはりいるわけです。
また【洗脳】のような他人からのネガティブな行為だけではなく、劣等感を元にして人は自分自身を裏切っている事実に盲目な問題もあるのです。
自分を裏切って生きれば当然、自己信頼を欠乏させて【他人が異常
たとえば、大嫌いなご近所さんに会ったとします。
本当はおべんちゃらをいいたくないのに「元気してましたか?」「心配していましたよ」など平気でいいます。本当は微塵も想っていないのに・・・。
社会生活をするうえで心がともわない行動の必要性は理解しますが、
安易に自分を裏切らない意識は自己信頼にとって重要な姿勢です。上記の例も「お元気でしたか?」ではウソになってしまうので「こんにちは」に変える。
一見小さい変化ですが自分を裏切っていない変化には間違いありません。
また人は不健康だとわかっていても、ついつい体に悪い食べ物を口にします。
不浄な食品が体にはいれば、健康は損なわれ心にもダメージをあたえます。
しかし、そんなことはわかっていても人は口にしています。つまり多少、自分を裏切ってもかまわないという悲しい癖があるのですね。
自分を裏切らず真剣に愛さないと、他人から裏切られたり無関心にさらされたりしてもなにも感じなくなってしまいます。
僕がいつもいっているロボット人間(サイコパスに近い存在)ですね。
現在はロボット人間と通常の人の分かれ道に立たされているので、本当に注意しなければなりません。
自分という人間が、ドンと腰をすえて確立できれば他人は恐くなくなります。
しかし、自分を裏切っている日常に気がつかないと、やはり難しい側面も僕はあると確信しています。
「いつも他人の目や評価を気にしてビクビクして、人生が最悪的につまらない・・・。」という原因は【自己の信頼がないこと】【自分を裏切っていることに無関心】に尽きると思うのです。
・どう生きれば他人が【本当に】気にならない自分になるのか?
偉そうに「あなたは自分を信頼していないから、いつまでも他人を気にしているんだ」みたいなことをいっていますが、僕もまだまだ他人を気にしているばかりの人生です。
このお話を書いている今も「こんなこと書いて怒られるかな?」と心配している部分もあります。
ただ、10年前から比べれば格段に「他人を気にしない」で、ラク~♪に生きている感はふんだんにあります。
では、どうすれば少しずつ確実に「良い意味で他人を気にしない自分になれるのか?」をカウンセラーとしてと、体験談を交えてご紹介させて頂きますね。
・まずは自己愛を絶対にもつ覚悟
冒頭でも述べさせて頂きましたが、自分を裏切っている自己に無関心では、【100%】なにも問題は解決できません。
他人を気にしている心理は自己信頼を欠如しているからといいましたが、その根幹は決して【自分を裏切らないという自己愛】と関係しているのです。
なにがあっても、どんなことがおきても、どんな恥ずかしい過去をもっていても、「絶対に自分を愛しきるんだ」という覚悟は【他人の目を気にする自己の克服】の土台になります。
土台がなければ物事は成就しません。
・言いにくいことを愛をもって伝える
思い出してみてください、あなたは子ども時代に他人の目を気にし過ごしていたでしょうか?
おそらく子ども時代は、今よりかは気にしていなかったと思うのです。
自分の感じたこと、考えたことを言いたいという感情になっているのに、相手に伝えないとそのエネルギーは鬱積していきます。
そのエネルギーはどこにいくと思いますか?
僕は「その言いたかったことを、相手に伝えるほど自分には価値がない」という心理の強化にむかうと思っています。
もちろん、相手が不愉快になることを不誠実になんでも伝えれば良いと言っているのではありませんよ。
ちょっと言いにくいけれど、心臓がバクバクして怖いけれど、なんて思われるかわからないけれど、「自分にとって緊張を感じさせるほどの言いたいこと」を相手に伝えると、人は自己信頼を手に入れられます。
なぜなら「私」という存在をこの世界に証明したからです。あなたの想いを外に出した瞬間、すっと自己尊重が心に入ってくるのです。
僕は居酒屋さんの「お通し」を断るだけでも心臓バクバクしていましたが、「お通しはいりません」と店員さんに伝えただけでも心がスッキリ~♫。
実は、この体験は涙が出そうなほど
自分にとっても、きっと相手のためにもなるお話には「愛」があると僕は思っています。
しかしどんなに「愛」があるお話でも、「いいにくいこと」と「いいやすい」ことが存在しています。
このとき、勇気ですね。勇気は「愛のあるいいにくい」ことを「言う気」です。
「本当はいいたいのに・・・」とずっと我慢していると、人はいつか自分との信用を失っていきますし、存在としてドンドン弱くなっていきますので注意が必要ですよ。
・人間的な修羅場にたいして背をむけて逃げない
一番厳しい【他人を気にしない自分になる!】対処法
それは、人間的な修羅場から逃避しない姿勢をもつことです。
人は人から逃げると、どんどん人が怖くなるんですね。
たとえば、クマに襲われてケガをせず逃げれても、トラウマになってしまいクマが怖くなるのと同じなんです。
もちろん暴力をふるう相手や、明らかに人間性的に堕落している相手であれば、逃げる? というよりその場から離れる必要はあります。
僕が「人間的な修羅場」といっているのは「自分の責任の範疇(はんちゅう)である人間関係からもたらされた、なるべく拒否したかったいざこざ」です。
重要な点は「自分の責任の範疇」です。
たとえば、奥さんと自分の母親が子どものようにくだらない理由を元に、派手にケンカしているとします。
普通の旦那さんであれば「俺は仕事で忙しいから」と逃げてしまうケースをよく耳にしますよね。
しかし結婚している責任を考えるのであれば、【なるべく拒否したい、いざこざ】であっても、仲介役をするべきだと僕は思うのです。
これが【人間的な修羅場】です。
【人間的な修羅場】から常に逃げていると、コミュニケーション能力はどんどん下がっていき、自分の都合が良い、居心地の良い人間関係にだけ安住してしまい、真実を問う他人から逃げるようになります。
つまり、他人が脅威に感じてしまうのです。
修羅場はなるべく逃げたいと思っても、自分の責任の範疇であったら逃げないこと。
そして、修羅場という場は「なにか前向きな行動をする」などの機転はほとんど求められません。
嵐がすぎるまで「じっとそこの場所に存在している」が大きな良い効果を生みます。
・愚痴や悪口だらけの会を開催しない出席しない
人の人生は、人との出会いでほぼ決まってしまいます。
どんな人と結婚するのか? どんな人を友にもつのか? どんな人と働くのか? で、【未来のポテンシャル】は確定される側面は否定できません。
とくに不浄な人、そして、ウワサ話・愚痴・悪口・泣き言・恨み言・心配事を話すことが大好物な人と縁をつないでいると、【他人の目を気にしない自分】にほぼ不可能になります。
なぜなら、それらのネガティブな要素は「他人から自分をどう評価されているのか?」という恐れを心に抱いている人が口にするからです。
自分を向上させたいと思っているからこそ【他人の目を気にしている自分】が気になっているので、今の自分よりも高次元な人との出会いを求める姿勢がとても大切なんですね。
もちろん、今の人間関係を邪険にする必要はありません。
もし自分が【他人の目を気にしない自分】になりたいのであれば、【他人を気にしない幸せな人】と出会う必要があると僕は確信しております。
出会いを求めるときに【本当に幸せな人】であることが肝要ですよ。他人を気にしない普通の人では、ただ厚かましい人である可能性が高いからです。
【他人を気にしない幸せな人】と実際に会えば、どのようにして【今】の幸せを手に入れたのか? という手がかりが必ず見つかります。
話し方・眼差し・服装・考え方など、不幸せな人とは一線を画する特徴をもっているので、現実的にとらえやすいのです。
出会いほど人を変える体験はありませんので、もし不浄な人とご縁を頂いている場合は、やはり真剣にこれからを考える必要があります。
・幸せになるなら「なんでもやってみる」という姿勢をもつ
僕がカウンセラーとしてご相談をうけるときに一番困ってしまうクライエントさんは、提案させて頂いても「それはできない」「あれもできない」「これもできない」という人なんですね。
もちろん人は心理的に追いこまれてしまうと、現実に圧倒されてしまって「見える範囲」がせまくなるので行動も制限されていきます。
その結果「あれもできない」「これもできない」という状態になってしまうのは、十分理解できますが、幸せになるためであれば「あれもやる」「これもやってみる」という生き方にゆっくりとシフトしていく姿勢は不可欠です。
やはり人はシンプルな生き物なんですね。
それは「やる人」と「やらない人」しか存在していないということです。
世の中には「本当に変わりたい!」という人ばかりなのですが、「本当の本当に、本当の本当に変わりたいと思っている?」と潜在意識まで追求すると、実は「変わることを嫌がっていて、しかも面倒とも思っている。
とりあえず今の自分を受けいれてくれる存在を探しているだけ」という人が少なくありません。
つまり「変わりたいんです」といえば、他人は前向きに受けとってくれると知っているので、顕在意識では「そのように」飾るけれど、実は「変わらない自分でも受けいれて欲しい」という本質的な欲求を果たしたい人がいるわけです。
は残念ながら、この方は「やらない人」なんですね。
「自分はなにも動かなくても他人が受けいれてくれる」というあり得ない理想郷を求めていて、その欲求が果たされたとき、はじめて幸せになるために「やる人」に変化する気でいても、その日がやってくることはないのです。
「気づけば人生が終わっちゃう・・・」という人の特徴ともいえます。
たとえば、もしあなたが砂漠をさまよい、ノドがカラカラで死にそうだったとします。そんなとき目の前にオアシスがあれば、誰であっても飛びつきますよね?
「幸せになるためなら、なんでもする」とは、このような方をさします。
オアシスは本当に幸せになれる【だろう】エッセンスを意味しています。
結果はやってみなくちゃわからない。
真剣に変わりたいと思っていても余裕がなく、そして「どうすれば幸せになれるのか?もうほとほとわからなく、憔悴している人生」状態であれば、オアシスに飛びつきます。結果は二の次の勢いで。
しかし死にそうな状況なのに、「ミネラルウォーターじゃないから私は飲まない」という人はいないわけですが、「あれもできない」「これもできない」という人は、そういっているのと同じなんですね。
それは、心の根底には今の状況に実は余裕が存在していて「このままでも良い」と思っている部分があるからです。
つまり「自分に都合の良い変わり方でなければ変わらなくていい」という心理ですね。
無意識に存在している「やらない人」に気づく姿勢が不可欠とは、「本当に幸せを渇望している?」に集約されています。
自己否定ではなく、【自分をそのまま見つめる】と真実の姿が現れてきます。
・自己完結できる行動を意識して日常にとりいれる
ひとつの行動にたいして100%他人の意識をとりいれず、すべて自己完結させる日常を繰り返していくと、人は自己を信頼していきます。
もちろんすべての問題を自己完結する行為は不可能ですし、その必要もありません。
しかしすべての行動を「他人の評価や、考え方・意識」をとりいれないではいられない状況では、自己信頼は難しいのです。
日々、目の前にやってくる意思決定を求められる物事や問題をバランス良く「誰にも介在させない」意識で生きると、楽しい生き方が手に入ります。
なぜなら、自分に誇りを感じさせてくれる意識だからです。
もちろん難しいことでなくてもかまいません。
誰かを100%気にしない状態で、【食べる】【着る】【泊る】【遊ぶ】を自己完結させてあげる。
「自己責任に基づく自己満足をやり切る」は他人の目を気にし過ぎてしまう人がついつい忘れてしまう意識や行動でもあります。
そのような人は気づけば「他人を意識している」ので、意識して「他人から切り離す」姿勢はとても重要になりますよ。
・希望があれば人は何度でも蘇る
常にバランスが重要となる人生のなかで、過度に他人を意識して気にしてたった一度の人生を不幸せに生きる人が後をたちません。
客観性は当然大切ですが、不要な縛りであれば早くサヨナラしたいですよね?
そのうえで、とにかく忘れてはならない覚悟が「自分を本気で愛する、幸せにし切る」ことだと僕はカウンセラーとして確信しております。
テクニック的なことは、【自己愛】という土台の上にしか成立しません。
どんなに体や心はボロボロでもその覚悟は絶対に捨てない。
実際、難しい問題に襲われても「自分を本気で愛する、幸せにし切る」という希望だけはキラキラと輝かせて生きて頂きたいと切に願っております。
希望があれば必ず人は立ち上がって生きていけるからです。
🍀最後までご覧頂きありがとうございます🍀
【PR】電子書籍 パブーにて販売中