☆「大きい家に住んで幸せになりたい」と思っている人は、家以外でも、すべての問題で幸福を感じることはできません。なぜなら、幸福を自分よりも外の世界に求めているからです。
やっとの思いで大きな家を手に入れたばかりの人は、幸福に感じているとおもいますが、しばらくするとその幸せは霧のように消えてしまうのです。大きい家に住んでいることが「当たり前」になってしまうから。
そして、自分が渇望しそして手に入れたものの、次第に幸福感が消え、そして無くなってしまった後に残るものとは何でしょうか?
それは、厳しい現実です。
大きな家に住めばそれなりに多くのお金が必要です、掃除もたくさんしなければなりません、物も100円ショップというわけにはいかず経費もかさみます。10年も経過すれば修繕費用も必要でしょう。
幸福を自分よりも外の世界で求めた人は、欲しかったものを手に入れた瞬間の、ある種『麻薬』的な快楽が消えたときに現実が見え、その厳しい現実のまえに不安になったり恐怖をもつのです。
大きな家を手に入れた結果、不幸になってしまったのです。
物質的なモノを手に入れて一時的な至福を得ることはできても、モノ自体の存在が人を幸福させにすることは、決してあり得ません。
どんな状況においても、「幸せ」と感じる心が必要なのです。
☆「大きな家という物質的な欲求」だけが自分の目標という人は、人間性として冷たいという側面や問題をふくんでいます。
たとえば、知人から「私は将来、病院を経営してお金持ちになりたい」といわれたら、いかがでしょうか?
正直な話「好きにして」と思わないでしょうか? 病院を経営したいという目標の心理のなかに『利己』や『エゴ』しか感じないからです。
逆に、「私は将来、病院を経営して一人でも多くのガン患者を救いたい」といわれたらいかがでしょうか? 前者の人によりもはるかに応援したい気持ちになりませんか?
重要なポイントはココなのです。大きな家に住んでも幸せになれない人の根深い心理のなかに、『利他』という概念がないのです。
『利他』の心がある人は、自分のことよりも他者の幸福を願えることができ、自分はすでに幸せと感じているため、他者が利益となる行いができるのです。
さまざまな『利己』や『エゴ』の執着を超え、『幸せ』という心理に到達させている人ということなのです。
そのため、真の利他の心をもち合わせている人は、何を得ても、何を失っても、どんな状況でも幸せを増幅させることができ、常に至福感じられるようになるのです。
大きな家に住みたい気持ちが、ダメなわけではありません。
独りよがりの願望は、決して幸福の道ではないということです。
大きな家に住みたい人、もしくは、すでに大きな家に住んでいるけれども幸せではない人は、その大きな家をつかって「誰かを喜ばす」という気持ちと、喜ばすためには実際どうアクションをとるべきかを検討してみてください。
☆私の実家でおきた話
私が幼少期ころから母親が「門付きの家が欲しい」と、呪文のようにいっていました。そして10数年の苦難のすえ、新築で門付きの家を手に入れたのです。詳しいことは割愛しますが、その後、音をたてて崩れるように家庭の不調和が始まりました。
事実、母親は一度として「誰かの幸せのために門付きの家が欲しい」といったことはありません。「家族のため」という理由さえ一度も話すことはなく、ただ自分が欲しいという気持ちしか説明したことがありませんでした。
その母親が渇望した門付きの家は、5LDKと大型犬が飼えるぐらいの庭がありとても大きな家だったのですが、その広さがかえって家族の心の距離をつくり、よそよそしくなり、他人行儀な関係がつくられ、一見仲の良い仮面をかぶった家族になってしまったのです。
その原因は、やはり大きな家を求める母親が『利他』の心をとりいれず、『自分の気持ちだけ』で突き進んでしまったからです。
もし、「大きな家に住んで、もっともっと家族やお世話になった人を幸せにしたい!」という利他の心で大きな家を求めていれば、求めて目標を追っていれば、家庭が不調和になることはなかったはずです。
私事で恐縮でしたが、物質的なものに幸せは存在しません。
人を幸せにもたらすものは、自分自身が幸せと感じとれる心と、利他の心が必要なのです。
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本橋良太